視界が赤く染まる。
世界が回転する。
全身に鋭い針が幾千と刺されているような激痛。
意識が明滅している。
端から黒ずんでいく視界の中央に男が立っている。こっちを見ている。
俺だ。
なぜ。
俺の姿をした誰かが唇を歪めた。嘲笑い、やがった……!
焼けるような喉からしゃがれた声が漏れた。
それはすぐに絶叫に変わったが、俺の意識はすでに飛んでいたように思う。
俺は過去の悪夢――いや、夢ではない――から意識を戻して、眼前の戦場を見据えた。
隣の<人形の王>がなにかぶつぶつと呟いているが、クロプツフェル力学による変換を成されているので意味は通じない。
戦闘は拮抗している。
<人形>の群れは電子の小娘を圧しているが今ひとつ決定打がない。
<禽獣の王>はあの殺人鬼のような娘に手をこまねいているようだ。本気を出せばよいものを。
<破砕の王>はどうなっているのか……。
猛烈な勢いで回転した棍が下段からプロトタイプに襲いかかる!
びんッ
「へへえー? そんなもんかよ!」
笑うプロトタイプの両手の間に張られたワイヤーに棍は受け止められ、プロトタイプは反動で飛び上がる。
空中に張られた"ミドガルズオルム"に着地するプロトタイプ。
棍を構えなおしながら<破砕の王>も空中で身体をひねってワイヤーへと着地。
しかし途端にワイヤーの固定が解け、<破砕の王>の体勢が崩れる!
「!」
【固定されていないワイヤー】を観測したプロトタイプのクロプツフェル力学によって"ミドガルズオルム"が固定を解かれたのだ。
落下していく<破砕の王>はおもむろにワイヤーを掴んで墜落を免れる。
しかしその脳天へと空中で一回転したプロトタイプの激烈なかかと落としが決まる!
衝撃のあまり力を失い、<破砕の王>が再び落ちていく。
手元に"ミドガルズオルム"をたぐりよせ、それを固定してその上に立ったプロトタイプが笑った。
「へへへへっ! どうだよ! 勝てねぇだろ!」
「……………」
着地した<破砕の王>が無言で棍を振って構えなおし、疾駆を開始する。
その表情には痛みも恐怖もない。
大地を蹴った<破砕の王>の左手がプロトタイプの踏むワイヤーにかかる。
棍を咥えて即座に右手でプロトタイプの足をつかむ<破砕の王>。
「"ミドガルズオルム"がダメならオレサマってことかよ!?」
楽しそうに吼えながらワイヤーの固定を解き、ニュートン力学における重力にその身を預けながら<破砕の王>を蹴り飛ばすプロトタイプ。
吹き飛ぶ<破砕の王>の後ろへとワイヤーを駆使して先回りしたプロトタイプがその背中へとソバットを決める!
衝撃に息を吐きながら、<破砕の王>は体をねじって棍をプロトタイプへと伸ばした。
ワイヤーに着地したプロトタイプの左腕が棍をはじき、右腕が握られる。
その拳が振られるよりも早く<破砕の王>の右足による強襲!
すう――、とプロトタイプはなにもない中空へと退いていた。
<破砕の王>の回し蹴りは空振りし、その身を重力に捕捉されて落下を始める。
プロトタイプは"ミドガルズオルム"を巻き取って頭上に張り、鉄棒のようにぶら下がっていた。
懸垂の要領で上がろうとしたが、<破砕の王>はすでに直下のワイヤーを蹴って飛んでいた。
「オレサマがクロプツフェル力学を解く前に攻撃すればいいってハナシか! たしかにな!」
裂帛とともに突き出された棍を蹴飛ばし、連動して動いた右足刀を防ぐために両手を離しワイヤーを間に張る。
しかし<破砕の王>はその防御方法への対抗策を考えていた。
右足より早く左手がワイヤーへと伸びていた。
腕をたたんで距離を縮める<破砕の王>にプロトタイプは目を見開いた。
「てめえッ―――!」
疾った右足刀がプロトタイプの腹に命中!
「がはっ!」
さらに振られた棍にわき腹を殴られて吹き飛ぶプロトタイプ。
観測が解けてばらばらと落ちる"ミドガルズオルム"。クロプツフェル力学は根幹が観測者による観測だから、痛みなどで集中が乱れると観測が解けてニュートン力学に支配しなおされてしまう。
対衝撃装甲のおかげでなんとか意識が途切れることは免れたプロトタイプは順調に落下していた。
肋骨が折れたらしいその痛みでクロプツフェル力学を行使できない。
「く、そ……っ」
眼前に迫った地面になすすべもなく激突し、バウンドするプロトタイプ。
追って着地した<破砕の王>が先ほどまでとまったく変わらぬ歩調で彼を追い詰める。
提げた棍がゆらゆらと揺れる。
震える手でプロトタイプは首にかけていたヘッドフォンを耳に当てた。
彼の行動を意に介さず、<破砕の王>が棍を構え、突き出す!
「……………」
しかし。
棍は握りとめられていた。
倒れたままのプロトタイプに!
「あれは……、なるほど。さすがといいますか、万能の何でも屋の面目躍如といったところですか」
倒れ伏すプロトタイプを映すウィンドウを最大にしてミス・ミシェルが呟く。
「どうなってんだ? なにがさすがなんだ?」
俺はヘリコプターの窓から雷撃ばかり眼で追っていたから何を言っているのかわからなかった。
いや、雷撃は目立つんだ。だからだ。あとこいつが何を言っているのかわからないのはいつもだ。
「プロトタイプはもともと都下で何でも屋として働いていたのですよ。まさしくどのような依頼でも遂行する、非合法ですが名立たる者でした」
俺が聞きたいのはそっちじゃないんだが。
「王室や政府も散々手を焼いたようですが、その代わりに散々利用したらしいです。6年前に引退して、それからは政府の研究所に入り浸るようになりまして、クロプツフェル力学を会得したというわけです」
へー、あいつ元々、軍人じゃないのか、ってどうでもいいわ。
「彼はその類稀なる学習能力でクロプツフェル力学を行使できるようになったわけですが、まさに彼は天才ですね。私は今それなりに感心しています」
そうなのか。
なんで天才なんだ? やられかけてるだろ。
「理論値への復帰を実際にしてみせしめたからですよ」
「理論値への復帰?」
なんだそりゃ。
「もう一度いいますが、クロプツフェル力学では観測することで世界を変えることができます。
ニュートン力学とは順番が違うのですね。事実があるから観測してそれを認識するのではなく、観測することによって事実とする。
だから、自分自身も【自己】として観測し、【支配】します。
クロプツフェル力学を用いるものはこの【自己】を確立していなければならないのは先ほどもいいましたね?」
ああ、見失うと全身ぐっちゃぐちゃのやつだろ。
俺はうなずいた。
「しかし自分自身が、傷を負うなどして【自己】から離れてしまう――理想値から変動してしまうこともあるわけです。
ここで、理論上は、再び【自己】を観測することで傷を回復することができます。これが理論値への復帰です。
ただし、実際にはそう簡単にはいきません。というか私は不可能だと思っていました。
なぜなら単純に、【自己】を観測するというのは容易ではないからです。
たとえクロプツフェル力学を用いるものでも通常の状態ならともかく、傷つき集中力が乱れているときにそんなことできないと」
ふーん。
そりゃ怪我してんのに別のことに集中しろって言われたら厳しいよな。
でもすげえ集中してるときに痛みとかってあんまり感じないよな。
俺がそういうと、
「アインスはそんな感じですね。敵以外なにも見えてないようです」
なにも考えてないっぽいもんな。
だから怖いともいえるけども。
「けれども彼は、プロトタイプはそれを成し遂げました。
ヘッドフォンで彼我の隔絶を図り、【自己】を観測し易くしたのです。これは素晴らしいことです」
どうやらミス・ミシェルは興奮しているようだった。ぜんぜんそうは見えないが。
しっかしまぁ、ヘッドフォンをつけることがそんなに重大なことなのか?
「感覚の遮蔽ですよ。クロプツフェル力学において自分自身は感覚器を通じて世界と繋がっている。彼我の境界はとても曖昧です。
できる限り外と繋がらないようにすれば、自分自身という円環は閉じ、【自己】は確立へと近づくのです。
つまり、理想値への復帰の足掛かりを作ることができるのですね」
ふうん。
わかるようなわからないような説明だな。
リラックスできるってことか? まぁヘッドフォンつけてたら外の音が聞こえなくなって気にならなくなるのは事実だ。
俺はあまり実感できない天才・プロトタイプを映すノートパソコンに目を移した。
「へへへっへへ。初めて試したけどうまくいったぜ。不思議な感じだな、時間が巻き戻ったみたいだ」
閉じていた目を開いて、地面に倒れたままプロトタイプは不敵に笑った。
その表情に苦悶の成分はない。
「……………」
<破砕の王>が棍を動かそうとするが、それはぴくりともしない。
ぼろぼろのはずの人間に掴まれているだけなのに!
「ひはは。もういいだろ。終いだばーか」
プロトタイプは棍を手放さずにゆっくりと立ち上がった。
へらへらと笑っている彼はすでに理想値への復帰によって万全の状態である。
「……………」
ざっと<破砕の王>が腰を落として全力で棍を引っ張る。しかし、
「だから、もう人間のフリは見飽きたんだよ!」
地面に落ちていた"ミドガルズオルム"がいっせいにプロトタイプの観測にしたがってぎゅるりと動き、<破砕の王>を縛りつけた!
「最初からおかしいとは思ってたんだよな、実はさ」
ヘッドフォンをはずして首にかけながら、プロトタイプは棍を奪い取る。
<破砕の王>はぎりぎりと締め上げられて抵抗もできない。
「――お前、クロプツフェル力学使ってないもんな。
身体操作も【自己】の拡張も、いやなによりもまず、観測すらしてなかったんだ、お前は。
ニュートン力学に【支配】された一般人と戦っても観測抵抗にはあうんだよ。俺の観測がすんなり通るわけないんだ。
でもお前と戦って、思い出したのは前に戦ったロボ助だった。
クロプツフェル力学的な観測の無抵抗っぷりが似てるんだよ、あいつと」
DEXとの戦闘のことをプロトタイプは引き合いに出して、結論を導き出した。
「お前、人間じゃないだろ」
ぱき。
<破砕の王>が震えていた。
剥き出しになっていた腕の肉が黒ずんで滑り落ちていく。
足は力をなくし、ふいにがくりと折れて倒れた。
頭を持ち上げた<破砕の王>の顔は数秒前とはまったく違うものになっていた。
それは死骸。
腐肉と泥にまみれた骸骨――これが<破砕の王>の正体なのだ。
「空恐ろしいのはこいつを動かしてたヤツだな。<人形>の一種なのか? それとも、あのニット帽か」
完全に死骸に戻った<破砕の王>を無視して、プロトタイプはぱきぱきと指を鳴らした。
続く
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