彼岸の夢
☆ ☆ ☆
音はない。
光もない。
何もない。
どろりとした感覚。
自分と他人を分かつ境界線がぐずぐずと融けてなくなってしまっている。
うめいた。
少なくとも自分ではそのつもりだった。
家に帰りたい。
母胎のようなそこは気持ちがいいけれど、ゆっくりと、自己が、喪われ、て、いく。
―――と。
ぼうんやりと光が見えた。
海底から水面を見たような弱弱しい光だけれども、それは光だった。
自分たちすべてが、どくんと脈動した。
ずるりと動き出す。
光に向かって。
☆ ☆ ☆
空は秋晴れ。
夏の暑さをひきずったぬるい風が彼岸花を揺らしている。
ゆるやかな勾配を持つ山の頂上付近になんの変哲もない県立中学校が建っていた。南北ふたつの校舎。その北に校庭と体育館。南に位置する校門。
始業まであと十数分。ひろい道路を多くの中学生が登ってくる。ある者は友達と話しながら、ある者は禁止されている自転車で。一人で歩いていた片無真はふとあくびをした。
☆ ☆ ☆
眠い。
ひたすらに眠いぞ。なんだって俺の身体はこんなにも睡眠を欲するのか。とくべつ疲れているわけでも夜更かししているわけでもない。ただ――ああ、あくびが止まらない――とてつもなく眠いのだ。
ううう、登校するのがつらいつらい。なぜこんなにも朝早くから活動を強制されなければならないのだろう。まるで刑務所のような生活だ。苦しいだけだと俺は思うね。
「おっはよー! あらあらぁ? とっても元気じゃないね、シン君っ! 朝からメランコリーなのは地球の温暖化について悩んででもいるのかい?」
おいおい俺の今日の運勢は最悪か? 俺は朝っぱらからこんなハイテンションに付き合っておしゃべりできるほど元気な若者じゃないぞ、紀伊野。
「だんまりかい? 愛想が無いなぁ、女の子に嫌われるぞっ?」
「……少なくともお前に好かれようとは思わないよ」
紀伊野は溌剌とした女子で、おそらく可愛い部類に入るのだろうが俺は苦手だ。なぜってこいつは俺の幼馴染でしかもクラスも同じで出席番号も前後、そんなやつに好意を抱くほど俺は妄想が得意でも青春に忙しくしてるわけでもないからだ。
「それはひどい発言! 怒っちゃうよ、ふくれっつらだよ、訴訟ものだよ」
歩きながら腰に手を当ててふくれっつらをする紀伊野。元気なやつだ。
「勝手に訴えてろ。俺は眠いの。早く椅子に座って堂々と授業をサボりたい」
俺が正直な心中をぽろりとこぼすと、
「それは、あたしが目の前にいる事をわかっての意見だと思っていいのかしら、片無くん?」
木陰に佇む女性が威圧感を込めた台詞を放った。ちっ、気付かなかったぜ。本当に今日の運勢は最低最悪らしい。
「軽い冗談ですよ、巳鏡先生。いたいけな子供の戯けた言葉だと理解しておいて下さい」
「ふむ。片無くんのような性根の捻じ曲がっている少年をいたいけという単語を使って表現する事が許されるのかどうか教師であるあたしにも見当がつかない上に、君があたしに思考の指針を示すようなほど上出来で上等な人間だとは思いも寄らなかったわ。今日からは授業を君が代わってくれるかしら」
いやみったらしい。黙ってろこの繰り言連発機関銃が。お前の発言を処理する事を本能が拒否してるぜ。そもそもコイツなんでこんな時間にこんなところにいるんだ教師だろう。職員室で腐れていればいいのになんで外にまで出てきて俺を苛立たせるのか。
「そうだよ! シン君が授業すればいいよ! きっと未曾有のミラクル授業になるっ」
巳鏡のヤローの言葉尻に乗っかって紀伊野がふざけた調子ではねる。はねるなよ。
「それじゃ、先生。俺、遅刻したくないんで」
というかもう俺に話しかけるな。俺に近寄るな。俺を見るな。俺に干渉するな。
「授業中は寝たいけど遅刻はしたくないだなんて我が侭だこと。あいかわらず君は自堕落で不真面目な生徒なのね。先生は悲しい。人をこんなに悲しませるなんて君はなんて酷い人間なのかしら。その罪を軽くするために、せめて早くお行きなさい」
やかましい。適当な発言の揚げ足とってんじゃねえよ。ああくそ、ほんっとに朝から気分最悪だぜ。
胸中で愚痴を吐きながら靴を履き替え、階段を登って三階へとたどり着く。隣でスキップしながら紀伊野も登ってくるが、無視だ無視。我が教室のドアを開ける。
「おっはよーんッ! みなさん元気ですか? アタシこと紀伊野優子は今日も絶好調元気です!」
ちなみにこれ、俺の台詞じゃないからな。わかってると思うが紀伊野だ。むしろ名乗ってるのに注釈入れるってどうなんだ。逆効果なのか。もう訳が分からん。ただ眠いのだ。
俺は亡霊のように自席に座り込み、机に突っ伏して瞼を閉じた。同時に睡魔が恐ろしい勢いで擦り寄ってきて俺を夢の世界へといざなってくれる。やかましい紀伊野の声を遮断し、意識をうっちゃる。せめて授業が始まるまでは至福の時を過ごさせてくれよな――
☆ ☆ ☆
一限目終了のチャイムが鳴って、クラス全員の姿勢が崩れる。ウチもそれにならって全身から力を抜き、だらしなく机に倒れこむ。うあー、数学は苦手やわー。ホンマ理解できへんねん。
教科書とノートを片付ける気力も無いほど疲れ果てて、でろーんってしとると、隣の席に座る「二組の変人」こと琢磨くんが声をかけてきた。
「一丸さん、大丈夫? まさか具合が悪いんじゃないよね。もしそうだとしたら保健室まで連れて行くけど」
「あー気にせんとってー。数学は疲れるねん、戦いを耐え抜いた休息やと思ってほしいわー」
琢磨くんは悪い人ちゃうねんけどやっぱりちょっと「変人」やねん。友達がおらんわけでもないのに休み時間はずうっと奇妙な本読んでるし、しゃべってることもときどきよう分からん。難しいことをいうのが好きみたい。ウチみたいなアホにはなにいってんのかさっぱり。返事に困るやん。リアクション出来ひんとかちょっとあれやしな。
「なるほど。ではお疲れさまと言っておけばいいのかな。でも次の授業は音楽だから移動だよ。休んでいられない」
うわー最悪やー。もう音楽なんてしたない。ウチが音楽したってそんなんいっしょやんけ。どうせ音痴はなおりませんよーだ。
「イッちゃーん。イッちゃん、音楽室行こう、音楽だよ音楽」
「粟狩さんが呼んでるよ、一丸さん。僕はもう行くことにする」
うう、逃げ場なし。
「わかった……。しゃーないな、戦地へおもむこか」
「なに言ってるの、イッちゃん」
くあー、友に理解を得られないというこの苦痛よ! もうどうにでもなれっ、ウチは負けへんで!
☆ ☆ ☆
「なぁ柊、三笠。あの『エデン・トライアル』の続編が出るらしいぜ」
渡り廊下を渡っているといきなり司がそういった。
「マジかよ! うおー早くあそびてぇ。いつでんの?」
『エデ・トラ』はマジで面白かったからなー。あのゲームの第二弾と来ればこれはもうソッコー買うしかないだろ。
「発売は十二月頃だとよ」
おいおい二ヶ月も先じゃねえかよ。焦れるなぁ。
「俺、最近もう一回やり始めたぜ」
三笠、お前本当に好きだな。オレもだけどさ。『エデ・トラ』は主人公によってストーリーが変わるから何回も楽しめるんだよなぁ。ま、オレは全クリしたけど。
「オレもしようかな。おい三笠、十二月までにどっちが早くクリア出来るか競争な!」
「おっ、いいねぇ。でも『エデ・トラ』マニアの俺に勝てると思ってるのかぁ? 柊ィ」
「そっちこそだ。塾に行ってるてめえとはプレイできる時間が違うぜ」
「そ、それはずるくないか!? 俺が塾に行ってる間はプレイするなよ!」
「おーい、俺をおいていくなよ! この司、その勝負に乱入させてもらうぜ」
オレと三笠が丁々発止を繰り広げていると司が割って入ってきた。なるほど、情報源のこいつが参加しないわけもない、か。
「いいじゃねえか、じゃ三人で競争な」
「一番遅かったやつが一番早かったやつにアイスおごるってのでどうだ?」
「もう秋だっつの! 別のにしようぜ」
「だから柊も司も塾行ってねぇじゃん!」
三笠が嘆くように吼えて、オレと司は大爆笑した。よーし、ぜってえ一位になってやる!
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